【総世寺 佛さま6号(平成26年・秋彼岸)】

     暑い夏がようやく終わりました。
    檀信徒の皆さまには、お元気でおすごしでいらっしゃいましょうか。

    ☆  ☆  ☆

     長崎県佐世保市で「人を殺したい」という欲求をおさえることが出来ず、高校一年の女子生徒が同級生を殺害した容疑で逮捕されました。
    十年前にも同市では、当時小六だった女児が同級生をカッターナイフで刺し、死亡させるという事件も起き、市や県をあげて「命の教育」が行われていた折の事件でした。
    「なぜ、人を殺してはいけないのか」子供達の重要な問いかけに、私達大人は正面から向き合って、子供達の心をしっかり受けとめ答えていないのではないかとの思いを強くします。
     戦後の教育改革で、「命を大切にしよう」と、日本の学校現場では頻繁に使われるものの、「人を殺すことは人間の存在を根本から脅かす行為で、当然に許されない、してはならない行為です」と禁止を強制する言葉は使われません。
    それは、人を殺しうる人間がいくら説いても説得力はなく、人を超える絶対的な存在から発せられて、初めて意味をもつ言葉だからだと思われます。





     今回のような事件が起きる度に、社会的背景を分析したり、容疑者の心理的動機の解明をしたり、精神病理的な面からの異常行動の原因究明がなされるのみで、根本的な答えを子供達に提示できていないのではないかと思います。




























     又我が家の昔の思い出です。
    暑い夏の日、鉢に入れていた金魚が白い腹をみせて浮いていました。お宮さんでの盆踊りの日、子供達が自分達の小使いで求めてきた金魚です。パンくずをやったり、水を換えたり、子供達は子供達なりにかわいがっていたのです。
     娘はその金魚を掌に乗せて、アジサイの白い花の咲いた所に穴を掘って埋めてやるのだと言って、妻を呼びに来ました。
    「マッチがいじれないから、お母さん、早く、この金魚を焼いてちょうだい。そして焼いてお骨になったら、埋めてやるんだから、私にちょうだいネ。」と言っています。
    妻は「ハイ、焼いたわョ」と言って、金魚の姿を隠して紙に包み、子供に渡していました。そのあと、娘はこんもりとうず高くなった所に、マッチの軸を立て、ききかじりの般若心経の初めの所を何回も唱えていました。
     前世も来世もわからない子供にそういう姿をさせたものはなんなのでしょう。
      幼年の頃にいだいた宗教心は、そのままの形で存続することは、余りありません。
    大部分は、それからおとずれる懐疑期、或いは発達してくる理知的傾向の為に、片隅に追いやられ、殆んど消え失せてしまうかにみえるのでありますが、しかしそれは、ちょうどイロリの灰の中に埋もれたホダ火のように、じょうずに掘り出してマキを加えれば、再び勢いよく燃え上がるのであります。


     少年期を経て青年期になって、様々の世界の苦しみや悩みに出会った時、かつて心に植えつけられた信仰の火種さえあれば、苦しみや悩みに打ち勝つ希望の火を燃え上がらすことができると信じるのです。
     私の妻が、小学校二年の時、担任の先生が日曜学校と称して、希望者をお寺に連れていってくれたのだそうです。
    電車に乗って連れて行かれたお寺では、お坊さんが紙芝居をしてくれ、一緒にお経をお唱えし、お菓子をくれたのだそうです。
    二十年以上も前のことなのに、嫁いできた当時、その時の話しをしながら「未だお経の一節を覚えているよ」とお唱えしてくれました。紙芝居やお菓子、そして電車に乗っていくことが、その時の子供の楽しみであったにしろ、私は何らかの形でお寺につながっている子供達に強さを感じるのです。
     平均的な日本人は先祖や道端のお地蔵さんに手を合わせ、食事前に「いただきます」と唱えるような信仰心、人を超える存在への畏敬の念をもって生活してきました。
     信仰の火種を持つことの「強さ」を思います。タブーや禁ずる言葉を抜きに、「生きる力」などと生を賛美するあまり、日本の教育には、取り上げるべき「死」が組み込まれていません。死とは何かを教えない生の教育の弱さを思います。



     現在、私はお寺参りに子供さん、お孫さん達をお連れになることを希望し、おすすめするのは、このような意味によるものです。
     幼児の心にたとえ一度は消えうせるかにみえようとも、信仰の火をともすことこそ父と母と家庭、そして寺の者の課せられた最大の責任と信じて疑いません。


























    ありがとうございました
     勤労奉仕

     八月三日、境内、墓地の清掃を檀信徒の皆様におねがいしました。
     朝のうち涼風が時折吹くとはいえ、今年の暑さは格別でしたので、一時間半程で終了とさせていだだき、皆で乾いた喉をうるおしながら歓談タイムとなりました。
    近くにいても、顔を合わせじっくり言葉を交わすことが少ないので、皆で楽しい時間がもてたと喜んでいただけた上に、お寺もさっぱり手が入り、ありがたいことだなぁと感謝した次第です。
    ここに御奉仕いただいた方の御芳名を御報告致します。
    山川トシ子・髙橋サダ子・一寸木花子・小泉直人・下田雅博・篠﨑勇・一寸木勝男・小林誠・一寸木操・奥津秀子・小野美子・一寸木シズ子・磯﨑文子・一寸木正治・内田清髙・一寸木治久・永松久雄・永松利明・塩谷泰孝・杉山久雄・杉山博倫・鈴木直幸・小野正一・杉本光昭・杉山弘一・一寸木朱実・磯﨑スエ子・磯﨑貴子・小野清・小泉正章・小泉操・高橋信一・高橋学・一寸木誠一・髙橋光成・杉山操子・一寸木勲・磯﨑美範・小宅康友・一寸木髙男・磯﨑繁幸・一寸木和広・勝又晴美・谷内久美子・杉本重吉・小野英敏・小石川啓輔・鈴木健一・一寸木健一・小泉一美・小泉清隆・杉山孝史・一寸木松江・松永恵子・小泉幸弘・大舘昭夫・小石川幸彦・野原正廣・野原悦子・山﨑節子・一寸木康夫・小林聖司・鈴木明・杉山哲・一寸木千津子・小石川栄一・多田芳雄・一寸木将都・奈須旦 以上 (順不同・敬称略)


    楽しみです!! ― ザル菊 ―

     日本の国は気候、風土、人情いずれも他国にない美しいものときかされています。
      人情はともかくとして、四季の風景、特に秋の草丘、山野、家々の庭先を彩る草花には、わび、さびという言葉とはおよそかけ離れた生活をしている俗人の私も、心動かされます。しかし現実の日本の秋は実に味けない、乾いたものとなりつつあります。すすきにまじって、ききょうの紫、栗を蒸した色と古人が嘆じた女郎花の黄色など、かつて眺めた可憐な姿をみることは全くといってよい程なくなってしまいました。
     人智の極みの機械文明は地球を短縮してしまい、外国に行くのも隣村に行くような気安いこの頃とて、外来種の繁殖するのもやむおえないことでしょうが、都会に近い山村ほど、外来種の草花や姫ジョンなどが梅雨期から初秋にかけての長い期間を咲きかわり、生い茂っています。
     どうかして私達の祖先が絵に文に親しみ、懐しんできた秋草の花を守り、日本の秋の景色をそこないたくないものだと常に思っていましたところ、自宅を開放してザル菊を展示しておられる鈴木三郎氏が、当寺の境内にも展示できるよう丹精なされた苗を百鉢分、御寄贈下さいました。





     秋の一日、当寺御参拝をなさりながら、ザル菊鑑賞をお勧めいたします。
     尚本年から鈴木氏の御指導の下、ザル菊という伝統園芸を皆で大切に継承していけるよう、護持会役員さんを中心に、毎年、ザル菊を育てていきたいと思っています。
     私自身、とてもとても楽しみにしています。いづれ改めてザル菊作りに参加して下さる仲間を募集させていただこうと企画しています。その折には、是非、御賛同、御協力下さい。





     墓地を分譲しています
    皆様が仲良く集う場所として、増々、この総世寺を発展させたいと思っています。
    親類・知人・親しき人にお声を掛けて頂けたら、嬉しいです。
    墓地分譲についての詳細は、お寺にお尋ね下さい。









      本堂裏手のトイレを洋式に

     高齢化が進み、トイレが和式であることは、お年よりにとって不便だろうナァと、私が総世寺入寺の際、気になったことの一ツでありました。
    このたび、護持会費の一部で本堂裏手にありますトイレを洋式に致しました。
     皆さまから集めております護持会費は、曹洞宗の本庁の方へ毎年、納めなければならないお金(宗費といいます)と火災保険の掛金、境内の植木の手入れの支払いなどで、その大半が出費してしまいますが、それでも残るお金を繰り越しながら積み立てておりました。今回、役員さん方とお話しして、護持会費によって、トイレを洋式にしようということになり、実現できました。大層ありがたく思っています。

















       彼岸御詠歌(香華)
    空青く松も緑のみ仏に
        子らが捧げる彼岸花かな 彼岸花かな